2010年6月17日

尼崎運河クルージング

"♪ 大阪の海は、悲しい色やね~ 
さよならをみんな、ここに捨てに、来るから~♪"

上田正樹の『悲しい色やね』に出てくる大阪の海、実は尼崎の海だった。

大阪梅田、阪急グランドビル31F(過去エントリ⇒こちら)から
神戸に沈む夕日
変わった形の煙突は、舞洲スラッジセンター。当然ですが、この西側に尼崎港があります。実際に、尼崎港からも舞洲スラッジセンターが見えました!
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てな訳で…行ってきました~。尼崎運河クルージング

主催は"あまけん" 尼崎公害訴訟の和解金の一部を活用し開設

尼崎は、どうしても公害の街のイメージが拭えませんが、過去を遡れば平安~江戸時代に掛けて築き上げた都市

尼崎は、いわば昔の首都圏たる近畿の西の玄関口であり、もともと山陽道・畿内の結節点としての非常に重要な位置にある都市である。そのため、平安期には、神崎・浜崎・今福・杭瀬、中世期には大物などの港が重要となり、そして近世には、大阪防衛の要として元和の戸田氏鉄の尼崎築城がおこなわれた。ところが近代になり、阪神工業地帯の要の一つとして大発展したため、工業都市の地層がさらに覆い被さっており、現在の都市イメージとしては後者の方が強い。しかし、実際は、重層的な歴史をもった万華鏡のような多面的都市なのである(引用:南部再生

「実際は、重層的な歴史をもった万華鏡のような多面的都市」

地図からもその様子がうかがえます(今回のルート)

より大きな地図で 尼崎運河クルージング を表示

"五合橋"に注目。宝塚・伊丹・尼崎をつなぐ幹線道路。むかしこの橋の近くで働いていた者の給与が、米で五合支払われたことが由縁だとか…

徐々に昔の地図へ(写真:クリックで拡大)

戦後の昭和31年。橋の南側は住友金属工業で今と変わらない


大正15年。橋から阪神尼崎駅付近にかけて近代産業の発展がうかがえる


明治44年。阪神電車が出来て間もないころ。橋の南には醤油会社が、尼崎はかつて醤油生産で潤ったそうです


※ 写真は文化財探検マップ(尼崎2010年版)から

江戸時代 橋の周辺も城下町として整備された。このころの海は今の中心地からかなり近いようだ



今回のクルージングでは内陸側は五合橋が見えるところで折り返し
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最も南側は既述の舞洲スラッジセンターが見えたところ。この西側にはパナソニックのプラズマディスプレイ工場が見えます
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スライドショー(大きい画面は⇒こちら←おススメ!☆☆☆)


街中の中央商店街もぶらり
スライドショー(大きい画面は⇒こちら


まさしく『万華鏡のような多面的都市』

まだまだ"ディープ尼崎"の底は見えてません。
今後も街歩きを続けたいですね。楽しみです~♪

過去エントリ:尼崎寺町⇒こちら

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